【第7日2回戦】『若人の夢、球春到来!!』第7章
【第89回春センバツ】大会第7日-2017年3月26日
ベストをかけた2回戦3試合が行われた大会第7日。雨中の甲子園で試合は熾烈を極め、2試合が延長15回引き分け再試合となる歴史的な日となった。一日に2試合が引き分けとなるのは春夏通じて史上初。
報徳学園、エース西垣の完封で、09年以来の8強へ!
前橋育英は、昨夏に続く2季連続となる6年ぶり12回目の出場。昨秋は群馬大会優勝、関東大会準決勝進出。6年前は初戦敗退。昨夏甲子園経験者が5人残り、安定した守りから試合をつくるスタイルが今年のチームも健在。ベスト8をかけた今日の報徳学園との一戦は相手エースの西垣君の前に散発4安打の完封負け。初回に4失点以降は両校無得点。初回の攻防が全てだった。何をやっても上手くいかない試合もある。しかし、全国クラスの投手を経験して、夏を見据える。
初めてのベスト8を目指す福岡大大濠と2年連続のベスト8を目指す滋賀学園との一戦は延長15回引き分け再試合となった。試合は初回、滋賀学園が4番武井君の中前適時打で1点を先制。福岡大大濠は8回に4番東君の中前適時打で同点とし、試合は1-1のまま延長戦へ。延長に入っても両校投手陣が踏ん張り、15回を終えた。再試合は大会第9日に行われる。選抜での引き分け再試合は、第86回大会(2014年)2回戦で広島新庄と桐生第一の試合(1-1)以来。前回は翌日の再試合で桐生第一が4-0で勝ち8強入りを決めている。
試合は健大高崎が優位に進めたが、9回表、工大福井は山岸君の二塁打で1点を勝ち越した。しかしその裏、健大高崎も得意の機動力を活かし重盗で1点を取り、7-7で延長戦に突入した。延長戦に入ってからは悪天候の中、両チームがピンチとチャンスを繰り返す中で、両投手陣が決定打を与えず、15回まで無得点に抑え、引き分けた。
【日程の変更】
第2試合が引き分け再試合となった後、福岡大大濠‐滋賀学園の試合は明日の第4試合に予定されたが、第3試合も引き分けたことで、改めて日程の変更が発表された。本日引き分けた2試合は明後日に組まれ、休養日はなくなる。
日程は次の通り。
大会第8日(2017年3月27日)(予定通り)
2回戦
14:00第3試合:静岡(静岡)-大阪桐蔭(大阪)
大会第9日(2017年3月28日)
2回戦(再試合)
13:30第2試合:健大高崎(群馬)‐工大福井(福井)
大会第10日(2017年3月29日)
準々決勝
大会11日(2017年3月30日)
準決勝
11:00第1試合
13:30第2試合
大会第12日(2017年3月31日)
優勝戦(決勝)
12:30開始
【人に歴史あり】
今日、8強入りを決めた報徳学園。強豪の歴史の1ページを担った元球児の記事を紹介したい。元報徳学園のエース、近田玲央さん(26)。甲子園で何度も見た印象深い投手の1人だ。上背はさほどなかったが、重心が安定していて、3年の夏には腕のしなりも加わって、急速以上の重い球がきていた。報徳学園を経て、プロ野球ソフトバンクに入団。いろいろあったんだなと。野球の怪我は経験した者でないとその辛さはわからない。僕の時代もまだ肩、肘痛いは、気持ちの問題という空気があった。気持ちで治るのなら簡単だ。痛み、精神的な辛さ、焦り、怪我でミリ単位で狂う身体のバランス。野球は複雑なスポーツだ。次元は違えど痛い程、理解できる。近田さんには、素晴らしい野球の経験を活かし、セカンドキャリアを歩んでほしい。
以下、記事抜粋。
選抜高校野球大会2回戦を26日に控える兵庫県の報徳学園(西宮市)。10年前、同校の左腕エースとして甲子園のマウンドに立った近田怜王(ちかだ・れお)さん(26)=西宮市=が、JR三ノ宮駅の駅員として新しい人生を歩んでいる。チームメートとともに白球を追い掛けた3年間を「いいことも悪いことも凝縮された、人生のターニングポイント」と懐かしむ。
マイクを持つのは、右手。「投げるのも打つのも左ですけど、マイクはなぜか違うんです」と笑う。
31回2/3を投げて2失点という圧倒的な成績で5年ぶりの優勝に導く。直球の伸びがとにかく良かった。
強力打線の大阪桐蔭(大阪)に対した決勝では、今春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表でも活躍した中田翔選手に本塁打を浴びた以外は3塁を踏ませずに完投。「高校屈指の左腕」の呼称を得たこの試合を、近田さんは今、こう振り返る。
「野球人生のベストゲームでした」
◆
三田市出身。小学2年で野球を始め、三田リトルシニアに所属した中学時代は、日本代表の主戦投手として世界大会を経験した。
報徳学園に入学直後は、体重が13キロ減るなど環境の変化に苦しんだが、秋になると実力を発揮する。140キロ台後半の直球とチェンジアップを武器に近畿大会を制し、翌春の選抜では優勝候補の一角に挙げられたが、初戦で惜敗。「打たれる気は全くしなかったんですが、気の緩みがあったんでしょうね」
夏の選手権でも、県予選を勝ち抜いて甲子園の切符をつかむものの、風邪が完治しないまま臨んだ初戦で脱水症状により降板。チームも敗れた。
その3日後、始動したばかりの新チームの練習。ランニングの最中に突然意識を失い、救急搬送された。直前の昼食でカレーライスを食べた記憶だけが残っている。
疲れがたまっていたのだろうと1カ月ほど静養して練習に復帰。5メートルほどの距離でキャッチボールを始めたところ、たたきつけるように相手の足元にボールが転がった。
練習でボールに触れない日々が続く。表向きは「体調不良」。あせり、思い悩む近田さんをチームメートは優しく見守り、「近田が打たれても、おれたちがカバーするから」と声を掛けてくれた。
理想の投球を追い求めることに見切りを付けた。「思い通りに投げられない」と感じると、症状が悪化してコントロールが乱れるためだ。「まあ、いいや」と開き直ることで、少しずつ調子が戻っていった。
3年生の最後の夏、3度目の甲子園に出場。3試合を勝ち抜いてベスト8まで進出し、健在をアピールする。08年秋のドラフト会議でソフトバンクが3位指名。だが、近田さんにイップスが治った感覚はなかったという。
◆
「早く1軍のマウンドに」「できれば先発で」「奪三振王になりたい」
幼い頃からの夢だったプロ野球選手。マスコミの取材に対し、思いつくままに目標を掲げたが、コーチの問い掛けに、答えが見つからなかった。
「具体的に、どんなピッチングをしたいんだ」
練習でも、戸惑った。例えば、自分で目標を設定してのダッシュ。与えられたメニューをこなすことだけを繰り返してきたため、どうすればいいのか分からない。
描いていた夢が、プロで活躍することではなく、プロに入ることだったと気付いた。
制球難も克服できず、4年目の12年夏に野手に転向。「クビを覚悟していたからです。将来、指導者になった時のことを考えて経験を積んでおこうと」。その年の秋、1軍出場を果たせないまま戦力外通告を受けた。
投手として参加した12球団合同トライアウトでも声が掛からなかった。誘いがあったJR西日本に入り、社会人野球の選手として2年半ほどプレー。「プロに戻れる力がない」と判断し、25歳でユニホームを脱いだ。
現役引退後、痛む体を診察してもらうと、右膝は半月板が損傷し、投球を支えてきた左肩は、関節唇がはがれ落ちていた。今はもう、手首のスナップでしかボールを投げられない。限界だった。
◆
「しんどいこともありますけど、働く場所がある喜びの方が大きいですね」
15年12月から三ノ宮駅で勤務する。野球選手から鉄道マンという転身にも、戸惑いはなかった。
ソフトバンクから戦力外通告を受けた後、実家に1カ月ほどこもった経験が影響しているという。何もやることがなく、昼のテレビドラマを毎日見る生活。野球ができなくなるつらさ以上に、仕事がないつらさを実感した。
今でも、野球かばんを抱えた高校球児が乗り降りするのを見ると、自身の3年間をふと思い出すことがある。だが、それはほんの一瞬。すぐに切り替え、周囲に気を配る。
「体を張ってでも乗客を守るのが今の仕事。鉄道の安全に、野球選手の肩書は関係ないですから」(小川 晶)
抜粋終わる。
切なき球運、決めなければならない勝者と敗者!
Kaispo2017!!